一人は発達障害、もう一人は不登校のち中退、でもきっと大丈夫

上の子は発達障害、下の子は不登校のち高校中退しました。でもきっと大丈夫。

高校中退した息子のこれまで(23)

今日も読んで下さりありがとうございます。


6月に編入した2つ目の高校では、

途中で帰ってきてしまう、行っても次の日には休む、、大幅に遅れて行く、、、など

学校が変わり、もう彼をからかったクラスメートもいないのに、

どちらかというと、温かい雰囲気で迎えて

もらっているのに(色々周りの子は話しかけてくれたそうです)、

やっぱり行かれません。


週30コマほどある授業のうち、出ていたのは3分の1の10コマくらいでしょうか。


、、、頭を抱えました。


しかし、思い切ってかれの部屋の高校受験時代の荷物を処分したところ(その時の記事です)

https://www.joyjoytree.site/entry/2019/03/07/013952


なぜか2日後、月の変わった7月から毎日学校に通い始めました。

期末テストも全て受け、無事に終業式を迎えることとなります

(とはいえ、校外学習の「観劇会」には「友達がいないからきつい」と言い、参加できませんでした)。


私立の高校だったためか7月のテスト後、すぐに試験休み、終業式となります。


「せっかく学校に行き始めたのに、、、」


と少し心配な気持ちで夏休みを迎えました。


ただ、毎朝起こし、なだめて仕度をさせ、

車で送迎する、という大変さからは解放されて、楽ではありました。


夏休みの数日間は彼が自ら申し込んだ学校での夏期講習に送っていき、希望があれば学校まで迎えに行きました。


夏期講習のある時もない時も一応朝は8時半頃には起こし、

(登校時はいつも7時前には起こしていました)

昼夜逆転しないように気をつけました。


、、ここで思い出したのですが、

この頃、彼が警察に110番してしまい、パトカーが何台もきてしまい、冷や汗をかいた出来事がありました。


その日、私はキッチンにいて、息子と話していました。


私も彼の生活管理の大変さでイライラしていたのかもしれません。


その時何か、息子が「学校に今後行かれるかわからない」的な何か絶望的なことを言ったのかもしれません。


私は、

「それだったらその時にはお母さんは死ぬからね」と

持っている包丁を自分に軽く向けてみせたのです。



もちろん彼を少しだけ脅かして思い直してもらいたい気持ちがあり、試す気持ちでした。


でも、もしかしたら、半面本当にできたらそうしたい、という気持ちもありました。


すると彼は、、、

「お母さん、やめて!」泣き出してしまいました。



「ごめん。死ぬわけないよ。冗談だよ」


と返そうとしたもうその時には携帯で110番

通報してしまった後でした、、、。


「あの、すみません母が自殺未遂を」。


どうしよう!警察が来てしまう!

しかも大したことないのに呼んでしまった。

近所の人たちはどう思うだろう?

いや、何回目?(パトカーが我が家に来たのは

少なく数えても4回はあります、、)


どうしよう、どうしよう、、、、。


震えながら待っていると1台目のパトカーの警察の方が。


インターホンの鳴る前に、無線か何かで

連絡をしている声が聞こえるので、すぐわかります。


近隣の家にも、その物音で通常の来客でないと

わかってしまいます。


顔面蒼白で家に入ってもらいます。

2人くらいの警察官の方が入ってきて、

状況確認を息子にします。


息子は、私が自殺未遂をしようとしたと説明します。


私は正直に、「少し脅かしてみようと思った」と話しました。


そんなこんなしているうちに、2台目のパトカー、3台目のパトカー、と次々と到着し、

狭いリビングは計8人くらいのおまわりさん達でいっぱいになってしまいました。


(近所の人たちは、3台もパトカーが止まっているのを見て、どう思っただろう?


この先どうしよう、、、)


おまわりさん方と話しながらそう思いました。


「子供は本気にしてしまうから冗談でもいけません」と叱られてしまったため、私は、

彼がその当時もらっていた「統合失調」の薬の袋を見せながら言い訳がましく説明していました。


「彼は、少しのことでも大きくうけとめてしまい、正常な判断ができないんです」。


確かに当時の彼は外に出ると

「誰かが自分な悪口を言っている」

などおかしなことを口にし、正しい判断が

できなかった。


でもそれだからこそ、私はもっと思慮深く

なるべきでした。


高校生の普通の男子なら、

相手にしなかったかもしれません。


でもその頃の彼は、まるで赤ん坊のようでした。


起きるときは両手を引っ張って上体を起こしてもらい、寝床まで冷たいジュースを持ってきて、とねだる。


私に頼らないと何一つできませんでした。

だからこそ、「お母さんが死んでしまう!」

と本気で受け止めてしまったのです。



パトカーが我が家に来てから数日は、近所の人の目を盗むように息を潜めて生活していました。朝、ゴミを捨てるのも怖くて、

5時前の早い時間にこそこそ捨てに行っていました。


苦い思い出です。


(続きます)